この世界から抜け出さなければという思いは時々は抱いていた。しかし漠然とした不安
が行動を押さえていた。此処から出る事が私の生命に関わるような事になる恐怖心があっ
た。灯油を配達に来る男がいつも見張っているような気がしてならなかった。
  忍と交わっている時に、背後にあの男の視線を感じる事がよくある。気配に振り返って
も何の変化もない。それを振り払うように忍の身体に溺れていく。激しい営みが恐怖心を
消してくれた。  男とはまだ一度も話した事はなかった。離れた所で忍と話していても、
時々敵意のある目で私を見ていた。忍に対しては優しい顔つきで話していたので好意を寄
せているのかも知れない。二人の間には配達人と注文主以上の関係があるような雰囲気が
漂っていた。
男の振る舞いは忍に仕えているように見える。
時々聞こえる話の内容は忍が命令口調で指示していたり、きつく咎めているような事があ
った。そうした時の男の私に対する視線は憎悪が強く感じられた。忍の男に対する冷たい
態度で、二人の関係を聞く事は躊躇われた。
忍の肉体以外のものに関心を持たない事が暗黙のルールのように自分を縛っていた。そう
する事であの男が来る時以外は楽しく過ごす事が出来た。  その後何年を忍と過ごしたの
だろう?。永かったようにも、夢のうちに過ぎ去ってしまったようにも思われる。
  激しい雨が数日降り続いた後にすっきり晴れ渡ったある日、いつものように忍が原稿を
街へ届けに出掛けた。一人残された私は何時になく疲れを感じていた。この数日雨で外出
もせず激しい交わりを繰り返していたが、それ位で疲れを感じた事は今まで無かった。
私の年齢からすれば疲れないのが不自然なのだが、疲れを感じて改めて今までの不自然さ
に疑問を持った。覚醒剤のような注射は射っていないが、食事に混ざっていれば分からな
い。今まで不自然さを感じなかったのは何かの薬物の所為ではないのか?。次々と疑問が
わき起こった。一度帰って娘に会わなければと急に思い立った。娘の事を思い出すと、早
く此処を抜け出さなくてはと焦燥感が増してくる。焦燥感がやがて背後に危険が迫ってい
るような危機感に変わっていった。
  「一度帰って直ぐに此処へ戻ります。」とメモを残して帰る事にした。

  ガレージからバイクを出しエンジンを始動させた。ヘルメットを被ろうとした時、灯油
配達の男がトラックでやってきた。私の姿を見ると道を塞ぐように向きを変えて止めた。
ゆっくり此方にやってくる男は異常に殺気立っていた。殺されると直感した。エンジンを
吹かしアクセルターンで向きを変えると男は猛然と駈けだした。もう疑う余地はない。
捕まらないように山の方へバイクを走らせた。昨日までの雨でぬかるんでしまってうまく
走れない。男は凄い形相で迫ってくる。焦ってアクセルを開けるとスリップして前へ進ま
ない。男の手が届く寸前に坂道を駆け上がれた。少し引き離しても迷路のような山道を先
回りして追いついてくる。里に出さないように追ってくるので同じ道をぐるぐる回る事に
なってしまう。オフロードタイヤなら何でもないがオンロードタイヤは全くグリップしな
い。何度も捕まりそうになった。横道から出てきた男を蹴飛ばし、蛇行しながら走り続け
る。ゆっくり走ればグリップするがエンストすれば終わりだ。アクセルでコントロールす
るがパワーが有りすぎてスピンしてしまう。殆ど真っ直ぐに走れない。私も男も泥だらけ
だ。道は分かっていてもなかなかその方向へ行けなかった。回り回って別荘の前へ出てし
まう事もあった。トラックが塞いでいる道は舗装路なのですぐに下の集落へ行けるがバイ
クですり抜ける事は出来ない。引き離すために出口の方へ向かわずに奥へ奥へと男を誘い
込んだ。出口付近は道が入り組んでいて、余程引き離しておかないと先回りされてしまう。


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