恐怖心と泥との格闘で喉はからからに渇いている。汗と泥が目に入って道がよく見えない。
男も疲れているはずだが泥に脚を取られてスタックするとすぐに追いついてくる。バイク
の音を聞いて近道をやってくるのだろう。
出来るだけ直線に近い道を選ぶがすぐに回り込んで元へ戻るようになっている。侵入した
者が抜け出せないような道の構造になっている。
  かなり男を引き離して出口の方へ回り込みエンジンを止めた。音が聞こえなければ男は
バイクの轍を辿ってくるだろう。同じ道を通らないようにして無理に跡をたどりやすくし
た。男が出口側にいれば振り切る事は出来ない。男も止まったのか足音が聞こえない。
私のいる場所を探っているのだろう。全神経を集中させて男の気配を探った。男が近くま
で来てエンジンがかからなければ捕まってしまう。一発で始動させて振り切らなければな
らない。キックペダルに足をかけたままで男が動き出すのを待った。
  永い静寂が身体をぞくぞくさせる。ガソリンタンクに落ちる汗の音が男に聞こえないか
と思う程の静けさだ。心臓の鼓動が轟音のように感じる。
  バリバリと枯れ枝を踏み折る音で静寂が破られた。男が背後に迫っていた。キックを踏
み下ろしエンジンをかけた。はやる心を抑えてスタートさせた。失敗は許されない。バッ
クミラーに男が迫ってくる。スリップしないように徐々にスピードを上げる。間合いは少
しずつだが開いてきた。男の位置からは先回りは無理だ。道を間違えないように慎重に進
んだ。
  早鐘のように打っていた心臓の鼓動も収まってきた。集落の手前の平家塚の辺りまで来
ると身体全体がねばい液体の中を進むような抵抗感に襲われた。バイクだけが進んで身体
は取り残されそうになる。しっかりハンドルを握っていないと後ろに落ちそうになる。
身体の表面をズルズルと音を立てて粘膜のような空気が後ろへ流れていく。目が霞んで前
方が見えなくなってきた。集落がかすかに見えた頃に抵抗感は無くなったがそのまま農家
の庭先に倒れ込んでしまった。上から覗き込む老人の顔が霞んで見えた。
  そのまま気を失ったのか、気が付いた時はピンクの霞の中を漂っていた。歩くでもなく
泳ぐでもなくフワーと上昇している感じだ。上方は明るく輝いていた。後方で誰か私を呼
んでいた。呼び声が大きくなり娘の声だと分かった。

      老婆の話
  「大きなオートバイの音がして四五日前に山へ登っていったのが下りて来なさった。何
かふらふらとして元気が無いようじゃった。自家の庭に入ってきてオートバイを止めたら
そのままへたり込んでしもうた。近づいてみると帽子の中の顔はガリガリで生気が無うな
ってしもうとった。儂には死んどるように見えたが息は微かにしとった。救急車を呼んで
やったが、それが来るまでに死んでしまうんでないかと心配じゃった。帽子を取ってやっ
た時はミイラのような顔になっとった。そりゃー腰を抜かす程びっくりしたわえ。昨日ま
での雨の中をどないしとったんやら。服は濡れとらんし、雨宿りするとこはないんじゃが
のー。平家塚の穴の中なら濡れはせんが、あそこは平家の怨霊がでるでのー。誰も中に入
って泊まるような者は今まで居らんかったったでのー。いや、きっとあそこに泊まったん
じゃ。ほんで平家の祟りにおうてミイラみたいになってしもたんじゃよ。きっとそうじゃ
わい、おーこわ。」


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