部屋内は綺麗に整えられている。私の一人住まいに比べて温かみが溢れている。妻を亡
くしてからは、殺伐とした暮らしが続いていた。経営していた喫茶店が赤字続きで、生活
を支える為に働き続けた妻は三年前に癌で逝ってしまった。結局、店はたたんで、時々声
の掛かるアルバイトで凌いでいる状態だ。
五十も過ぎればまともな職には有りつけず、肉体労働か、人の嫌がる汚い作業のアルバイ
ト位しか収入を得る道はなかった。
それでも好きなバイクだけは離さずに乗り続けていた。出先でバイト先を見つけたり、仕
事の情報が得られるので、バイトのない日は出かける事が多い。
「コーヒーお好きでしょ?」
「えー」
「やっぱり。貴方が来られる前から、もうすぐコーヒー好きの人がやって来ると分かっ
てましたの」
「へー、そんな事が分かるのですか」
「何となくそんな気がしたの。こんな山の中に半年も住んでいると、感覚的にピュアに
なった様な気がするわ」
「うまいコーヒーですね」
「ありがとう、これでもコーヒーにはうるさい方なの」
「でも、こちらで新鮮な豆を手に入れるのは大変でしょう」
「十五キロ程下った街の喫茶店で分けてもらっているの」
「じゃー、結構うまい店なんですね」
「マスターが変わり者で、淹れ方までうるさく指導してくれたわ」
私が喫茶店をやっていた事は言えなかった。恥ずかしい気持ちでつぶれた事に触れたくな
かった。
「その街から此処へ替わられたの?」
「いいえ、前は東京で出版関係の仕事をしていたの。少し疲れちゃって。少しじゃない
わね、陶芸でもしてのんびり暮らしたいと思って」
「仕事の方は?」
「やめたわ、でも此処で医療関係の翻訳の仕事が出来るので、食べていく位は何とかな
るの」
「能力のある人は好いですね」
「ただ、惰性でやっているだけ」
「惰性で出来るもんじゃないでしょう」
「貴方はどうなの?」
「会社をリストラされて今はプータロー、失業手当もあと少ししか残ってないなー」
自分でリストラしたのだから同じ事だと嘘をついてしまった。
「ご家族は?」
「妻を三年前に癌で亡くしまして、娘は嫁いでいるし、一人でやもめ暮らしです」
「まーお気の毒に。ご不自由でしょう?」 「結構気楽で好いですよ。たまにこうして
バイクに乗るのが楽しみで。あー申し遅れました、藤波と申します」
「あらいやだ、私、岩下忍です。お名前の方は?」
「達也です、三橋達也の達也。ちょっと古いかなー」
「素敵なお名前だわ。それに今日初めて会った様な気がしないわ」
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