薬が切れると幻覚に襲われるようになった。
部屋の隅々から夥しいゴキブリが這い出してきたり、撫でようとした忍の髪が無数の蛇に
変わったりした。足下のグニャグニャした感触で見下ろすと、無数の蛇が絡みついて這い
登ろうとしていた。目を閉じても自分の脳味噌を蛆虫が食い尽くしていく恐怖に襲われた。
  冬の間に私は忍の奴隷と化していた。
薬を射って交わる時だけが、忍に対して優位に振る舞える一時であった。快楽と幻覚の狭
間で何の意志も持たず、否、薬を欲求する意志は忍の身体を求める以上であったかも知れ
ない。
  禁断症状が激しくなって忍は薬を控え始めた。このままでは持たないと思ったようだ。
私にとっては地獄の始まりであった。幻覚が現れる症状を緩和させる薬を与えられたが、
効果が出始めるのは冬の終わり頃まで待たなければならなかった。  春になり畑を耕した
り、山を歩いて汗をかくようになると幻覚も少なくなってきた。調子のよい日は山を駆け
めぐり、腹筋運動や腕立て伏せで体力を蓄えた。最初の頃は死ぬ程苦しい日が続いたが、
この状況から抜け出さなくてはという思いが気力に繋がっていた。忍も翻訳の原稿を定期
的に街へ届けに行くようになると気が紛れるのか夜の営みだけになった。
  山桜が咲く頃になると秋に蒔いたポピーが育ち花芽を沢山付けていた。花が咲き出すと
ポピーではなく鬼芥子である事が分かった。
熟していない実の乳液を乾燥させれば阿片が作れる。
  忍の正体は何者なのか?。定期的に灯油を運んでくる目つきの悪い男とのやり取りも不
自然なものを感じる。去年の夏頃にその男に粉末状の物が入ったビニール袋を渡していた。
処女であった忍の家に男物の衣類があるのも不自然だ。中古で買った別荘とはいえ、設備
は豪華で新しく、若い女の手に合うような物ではない。非合法の巨大組織が関わっている
のではないのか?。忍の身体に溺れ、半年以上もの間そんな疑問がわかなかった自分がお
かしかった。今までの侘びしい生活からの逃避と、美しい処女を自分の女にしたという満
足感が思考力を鈍らせたのかも知れない。
 それでも忍に質す事は出来なかった。この生活を、否、忍を失う事が怖かったのである。
忍の指示するまま鬼芥子の実を集め、圧搾機で乳液を絞り出し乾燥機にかける作業を始め
た。幻覚症状を起こす物質を作り始めた頃には私の幻覚症状は無くなっていた。粉末を一
キログラム作るには沢山の芥子の実が必要だった。花が終わった芥子坊主を採取するため
朝早くから作業をした。私の集めた芥子が何人の人生を狂わせるのだろう?
すでに私の人生は狂っていた。娘に連絡もせず、蒸発したままである。
  芥子の花が終わるまでの二ヶ月程は忙しく働いた。他人の人生を狂わせる作業で汗を流
す事により私の肉体は逞しくなっていった。夜ごとの忍との交わりも薬は必要なかった。

  一年が過ぎ梅雨時になった。芥子畑は種を採った後ですべて抜き取り、乾燥させ焼却し
ていた。梅雨明け頃にコスモスの種を蒔くので耕耘機で耕しておいた。花も草もない土地
は殺伐としていたが、猛禽類のノスリモグラを捕らえる様がよく見られた。山間の迷路
に入り込んでしまった私は地下の迷路を行き来するモグラに似ていた。開けた所に出た途
端、ノスリに捕らえられたモグラのように忍に捕まってしまった。閉ざされた世界で忍と
交わり続ける事が生きている証であった。


page10へ

top